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波並漁港から [北陸]

 返しは波並漁港から。波並駅からすぐにして素晴らしく箱庭的なロケが展開していて、一般広告で背後の丘からの写真を見かけたことがあります。
 やはり同業者が多数居並ぶ中、待ちました。


 天気はだんだんと悪くなって曇り基調へ。



 漁港では地元の漁師の方が黙々と網を繕っておられました。本当に静かな光景でした。時々軽トラを網の上で走らせてならしたり・・・何とものんびり。



 1980年頃の同じ場所での写真を見たことがありますが、基本的には何も変わっていませんでした。4半世紀前と大きくは変わらない光景だったんだろうなと今も思います。

 





 この時の撮影ではほとんどそうでしたが、この場所でも先走りのローカルなく1本勝負。非常に緊張感ある撮影でした・・・。



 その上、この場所、線路の手前に国道があるのです。時々車が来ます。



 結局、列車が来た時に国道を宅○便のトラックが向かってきて、切り込んで撮っていた人々は涙をのみました・・・。私は軽トラ入れてたので広めにとっていたので、何とか回避はできましたが・・・。






2004年8月8日 能登線 波並-藤波


 まあ、曇りなので・・・。ゴハチでなくていいから晴れた日に撮ってみたかったです。

 今は線路だけがなくなり、あとはそのままなのでしょう。撮り直したくとも、もはや不可能。


終着駅 [北陸]

 最近雑務がますます・・・なので、更新ペースが随分落ちてしまいました。あと数回分を、せめて今月中に出さなければ・・・。


 では、話の続き。

 能登線の終点は蛸島駅でしたが、この時の「能登路」は珠洲駅が終着駅でした。折り返しまでの間、駅に入って撮影しました。
 珠洲駅はホームは島式1本だけで、それに留置線が2本と車庫があるだけという簡素な駅でした。静かな街中にある小さな駅でした。
 到着後しばらく、ホームで撮影。少し撮りにくい位置だったのが難でした。下り列車はこちらのホームを使うことになっていたので仕方ありませんでした。
 


2004年8月8日 能登線 珠洲駅

 しばらくして入れ替え作業が始まりました。


2004年8月8日 能登線 珠洲駅

 手旗を振って、安全確認。ヘッドライト点灯、エンジンの唸りとともに、一旦穴水方へ。



 駅本屋側にある留置線で撮影会が行われました。だんだん雲が割れ、晴れてきました。


2004年8月8日 能登線 珠洲駅


 留置線ではこの時運転されたキハ58と、のと鉄道移管後から急行「能登恋路号」で使用されたNT800系を並べていました。どちらも2002年まで能登線の急行列車で使われていた車両です。


 NT800系の方は車内を開放していました。運転台から入って車内を見物できました。運転台から入って1両目だけ冷房が入っていてもう1両は掛かっていませんでした。同業の方が「ものすごい暑いですよ」というのを聞いて2両目に好奇心で入ってみたら、恐ろしく暑くてすぐ撤収したのを思い出しました。
 車内の写真は残念ながら撮ってなかったような・・・。座席は黄色いチェックの生地で転換クロスシートだったと記憶しています。




2002年に能登線の急行は全て廃止されました。




 転換後に自前で急行用の新車を入れたり列車増発したりと頑張って、のと鉄道は転換後しばらくは黒字経営を実現していたそうです。タブレット閉塞だった運行システムをCTC化したりもしたそうです。線路も重軌条化していたそうで、駅でレールの断片を数百円で売っていましたが職員の方によると40kgレールであるとのことでした。最近はこれがほとんど・・・とおっしゃっていました。国鉄の簡易線といえば20kg台だったと記憶していたので当時驚いた覚えがあります。
 このレールの断片は1つ買ったのですが、やすりで磨いて今も文珍に使っています。
 いろんな努力をされていたそうですが、廃線になったのが残念です。
 当時の鉄ファンの記事では、七尾線転換が経営に大きく響いたと書いてあったと思います。その号は手元に有るはずなんですが、どの号に書いてあったか、まではさすがに覚えていないので、詳しく書くのはやめておきます。








2004年8月8日 能登線 珠洲駅


 まだゴハチを機回しする前の写真なので曇ってますが・・・丁度普通列車が発車して行くところだったので撮影。特に発車合図とかはなく、静かに発車して行きました。どこか駅員殿の雰囲気がさびしげでした。
 普通列車用に使われていたNT100系は能登線廃止後全てミャンマーに飛ばされたそうです。今はこの車両も日本国内を走っていません。







 最後に、ゴハチの顔のアップ撮りで。





2004年8月8日 能登線 珠洲駅



内浦の海はただ穏やかに [北陸]

 いい撮影地の多かった能登線ですが、もっとじっくり撮りたかったな。この半年後の3月、穴水から先の区間が廃止になってしまいました。

 高校生なりたての分際では自分の力で何度も行くのは無理でした。奥能登は500キロ果ての地。しかも同じくらい遠い大糸とは違い夜行とかは利用しづらい(急行きたぐにで金沢3時到着、2時間待ちして七尾線を乗り継いで穴水8時・・・泊まりがけならかろうじて可能なレベル)ので大糸よりよっぽど遠い印象がありました。大糸線なら急行きたぐに1本で糸魚川に5時半到着、そこからうまく回れば徒歩でも一日中漏れなく撮影できました。そういう意味でも本当に遠いところでした。

 今も残っていたら、間違いなく通うだろうな。


2004年8月8日 能登線 矢波-波並

 先ほどの撮影地から追っかけて、これはいいかも、と思った所で下車。海の色がいいなあ、と思い、集落の雰囲気とか雲の雰囲気とかいいなあ、とも思い、あれこれ考えてたら通過時間なんてあっという間に来てしまいました。少し練りきれないまま、時間になってしまいました。


 能登線はアップダウンの激しい路線で、キハ58はゆっくりと、時々タイフォンを鳴らしながら走っていました。簡易線規格で1960年代になってようやく全通した能登線。そこかしこにある25‰を登って下って・・・でした。

 能登半島の南側の内浦海岸は本当に穏やかな海でした。海沿いに広がる風景は、観光地でも何でもない地味な風景でしたが、そこかしこに違った風情を感じさせ新鮮でした。


 この後、すぐ近くでもっといい撮影地を見つけアングリ。又機会あったら行くことを誓って、北進。



 この時の反省・・・通過15分前には撮影地に着くこと。


能登路 盛夏の頃 [北陸]

 2004年。この年は写真的には充実してたのかな。でも、いろんな意味で悪夢の時代。帰りたいか?特に当時の同級生だった友人とはよくする話題です。

 うーん、口では「被写体だけ帰って来るんならエエんやけどなあ」とか言っとりますが、本音ではやり直したいかな。確かに嫌なこと多かったけど、それでもしておきたかったことがたくさんあります。



 ・・・まあいちいち書くのはやめておくとして。



 ただ一つ。愚痴は「あきらめていない」から、言えるもの。






 この日の遠征先は能登線。国鉄色に塗り戻された金沢のキハ58による急行「能登路」の撮影に行きました。

 一発目は今も鉄道が残っている和倉-穴水間で狙うべく撮影地探し。昔から能登鹿島あたりの海岸線がよく知られていますが、草が高かったので諦めて能登中島の近くの田んぼから狙いました。
 鉄が農道に集中する中、丁度農家の方々が農薬散布のためやってこられました。こんなにおられたら困る、はやく出ていってくれというご様子。しかしそこはイベント列車の走る日だけありました。群衆の中から「ある時間を過ぎたら一斉に皆いなくなりますので・・・あと10分だけ待って下さい」とお願いに行く方の姿がありました。ご好意をいただいた農家の方ももちろんのこと、こういったことができる方ってありがたいです。

 そうして何とか排除は逃れた撮影地で、あれこれ考える・・・。通過直前まで無言でアングルばかり考えているのは今もあまり変わりません。



 そして、時間。タイフォン一声。築堤をかけ下ってきたのは本当にピカピカの国鉄色。こう言った「国鉄色」の車両が走り出したはるかな昔にはこのような印象を与えてくれたのか、と思わせるものがありました。


 通過後すぐ、集まった人々は大抵穴水駅での停車時間等を使って列車を追っかけるので、速攻撤収。5分後にはほとんど人がいなくなっていました。速い・・・。地元の方もアングリだったことでしょう。



2004年8月8日 七尾線 能登中島-笠師保


 原版では左上に入道雲が出ているのが分かるのですが、PC上だと再現しづらいですね。何となく見えるでしょうか。





 そうそう、大学の友人で奥能登の山奥から出てきている人がいますが、穴水という地名が分かっただけで随分とビックリされました。

 全国各地に行っていると、お会いする方とその方の地元の話が少しはできることが多いです。便利なのかな?どうなのだか。




忘れることなど・・・できるものか [山陰]

 8月になりましたね。Blog管理人は雑務がますます・・・なので少しお休みをいただいておりました。
 8月は手もちのネタには事欠きませんが、さてさて・・・。

 今日は中学生の時の写真でも出しましょうか。まあ、当時は不運続きで悪い思い出が多くそっちも忘れられませんが、そういう頃に出会った車両や風景というものはずっと忘れられないようです。
 

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2003年8月14日 山陰本線 宝木駅

 国鉄王国、山陰。かつてはこれに類した言葉が雑誌でよく踊っていたものです。走っているのはキハ58にキハ181、キハ47など国鉄型気動車。しかもほぼすべて国鉄色。ブルトレ出雲あり、伯備貨物も全て原色。その他にもいろいろ。にぎやかだったわけです。被写体が多かっただけに、雑誌も充実した内容のものを出していました。
 私がようやく山陰などに遠征出来るようになった時にはすでに山陰西部の主だったキハは銀箱化していて、鳥取―米子間だけでした。
 鳥取米子間は雑誌など書籍上ではあまり撮影地のでていない、撮りにくい地域というイメージがありましたが、当時普及し始めていたインターネットはそのイメージを覆してくれました。各サイトでは様々な写真が出ていて、毎日新しい情報が出ていないか、学校から帰宅してすぐcheckしていたのを思い出します。
 そうやって集めた資料をもとに研究を重ねつつ、この年の8月と9月に各1回現地に行きました。もう8年前なのですね。私にとってはまだ過去になっていない過去なのですが。

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 1回目は天気予報気にせずML八重垣の指定券を確保し、T君と18きっぷで行きました。大阪-岡山間はPF、岡山-出雲市はDD51(手元の写真によると、
この日はDD51 1179[後])が牽引していました。編成はブルーの14系客車4両。満席でした。
 必死で親に頼み込んで電話で発売当日の窓口が開いてすぐに予約を入れてもらい、何とかとれた指定券でしたが、14系客車は青のバッタンシート(簡易リクライニングシートというやつです)で、寝づらいことこの上なかったです。しかも1号車。運悪く電源エンジン付きのスハフでした。停車するたびにうるさいエンジン音で目が覚めてしまい・・・。
 結局、岡山駅での機関車付け替えまで起きてしまいました。そうなればせっかくだからと見物しに行きました。
 確か庭瀬あたりから上石見あたりまではしっかり寝てたと思います。起きていた時の列車のスピードの印象は姫路まで最高90キロくらい、姫路からは70キロくらい。DDも同じ感じでした。今からよく考えると、ここまで起きてるんならいっそ谷田峠の25‰を力行するエンジン音を聞いてみたかったような気もします。まあ4両では軽過ぎかな。

 目が覚めると、カタン・・・カタン・・・と、揺れながら、列車は走っていました。デッキの方を見ると、DDの顔がゆっくりと左右に揺れながら見えました。外は小雨模様。ほとんど暗闇ながら僅かに明るくなりつつある外の田園風景をぼんやり見ながら、時を過ごしました。
 しばらくして山が迫ってきたかと思うと鉄橋を渡り、トンネルを抜け、やがて減速して駅に滑り込む・・・。ここでようやく自分がどこにいるか分かりました。生山駅、4時55分。この駅でも客扱いはありましたが乗降客がいたかは不明。
 大阪発は22時27分。岡山発は2時24分。本当は7時間寝れる所をわずか2時間半しか寝れていないという驚愕の事実を目の当たりに。しっかり者のT君は慣れているのか、ちゃんと大阪駅から寝てました。
 根雨5時14分発。次は伯耆大山。だんだん明るくなってきたところで、乳白色に包まれた空が見えてきました。大山見えないなあ(当然)。
 やがて本日初めてのオルゴールが鳴り響く。ハイケンスのセレナーデ。もちろん国鉄そのもののオルゴールでした。灰皿にもJNRマーク。なんとも国鉄な列車でしたが、確か2004年頃を最後に設定がなくなりました。最後の年はDD51の通し運転で走りました。
 かつて大阪駅を西に向かってたて続きに出発し、在来線全盛期を思い起こさせる存在だったJR西のMLシリーズの中では、ML山陽とともに早い時点でなくなった列車でした。JR世代の私にかつての夜行列車の魅力の一端を教えてくれる生き証人たちでした。

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 伯耆大山で下車。5時44分。外は雨模様。すぐやってきたキハ47の5連に揺られ、大山寺駅で下車。しばらく駅撮り。キハ58の4連とか、キハ47と58の4連とかを撮影。その後キハ47に揺られて、移動。前夜の無理が祟り出雲は車内より軽く見る鉄。野太いDDのエンジン音だけはよく覚えています。
 天気悪いので長和瀬など風光明媚な撮影地はパス。宝木駅に落ち着きました。・・・しかもT君に判断丸投げという、非常にたちの悪い私でした。あの時は本当にありがとうございました(_)。
 その時の順向き1発目が上の写真。詳しいことは今一つ覚えていないですが、雨に濡れた雰囲気が撮りたくて縦位置で切り取りました。雨の中、か細い三脚に1台のカメラを載せ、タオルでくるんだカメラをしっかり手で握って、シャッターを切りました。


 現役バリバリの国鉄色キハ58による快速列車。当時復活塗り戻しでも何でもない国鉄色キハは山陰だけ、ということがよく言われていたと記憶しています。一貫して走り続けてきたものだけがまとう、現役という空気。そのインパクトは巨大でした。
 今だったら鳥取まで車で4時間もかからないので毎週のように通ってしまいそうですが、中学生だから2回だけ。しかもこの日のベストショットはこれだけといっていい状況です。
 でも、だからこそいっそういとおしいのかもしれません。